学位論文 緒論

誘導電動機の高性能制御法に関する研究

岩崎 誠 (Dec. 1990)


近年のエレクトロニクス技術の発展は,マイクロコンピュータによる各種演算の高速処理や大容量高速スイッチング素子による大電力の制御等を可能とし,電動機制御はこれらの要素技術を応用することによって飛躍的な制御特性の向上をみるようになっている。 特に高速スイッチング素子の大容量化によって実現された高性能電力変換器を用いれば,従来一定周波数の電源で駆動された交流電動機を容易に可変速運転することができ,さらにマイクロコントローラ等による制御技術と組み合わせた交流電動機がサーボモータとして積極的に用いられるようになっている。 中でも,かご形誘導電動機は他の交流電動機に比べて保守面,構造面,容量面で数多くの有利な点を持ち合わせており,さらに元来非線形なトルク発生機構に対して直流電動機と同等のトルク発生機構を持たせるベクトル制御法が開発された結果,誘導電動機は広くサーボモータとして用いられるようになった。 直流電動機が励磁回路と電機子回路を独立に制御することによって高速トルク応答を得るように,誘導電動機のベクトル制御法は,一次電流を二次磁束に対して平行及び直角な二つの成分を持つベクトルとして扱ってトルクの線形性及びトルクの高速応答を得る制御法である。 ベクトル制御の実現にあたっては種々の制御方式が提案されており,ベクトル制御が元来電流制御モデルで記述されているという観点から電流形PWMインバータによる電流源を用いた方式や,汎用インバータで広く普及している電圧形PWMインバータによる電圧源と電流制御技術を組み合わせた方式などがあり,また両者の比較検討も行われている。 このベクトル制御法の理論的発展と,それを支える要素技術としてのインバータ技術の発展により,産業界における誘導電動機の応用範囲は飛躍的に拡大した。

一方,サーボアクチュエータとしてのベクトル制御誘導機の応用範囲の拡大は,同時にベクトル制御法自身が持つ問題点の解決のみならず,駆動対象である機械系全体に対する適応性をも要求するようになってきている。 ベクトル制御そのものが持つ代表的な問題点としては,電動機定数の変動による制御性能の低下が挙げられる。 本論文で扱うすべり周波数演算方式によるベクトル制御法は制御演算中に誘導機定数を用いるが,特に回転子の抵抗値変動がトルク制御精度を大きく左右するという問題を持っている。 そのため高精度トルク制御の実現には二次抵抗補正が不可欠であり,既にいくつかの方法が提案されている。代表的な方法としては,電動機の固定子あるいは固定子巻線温度を検出して間接的に二次抵抗の温度補正をする方法,励磁電流に微少信号を加え,その影響が速度に現われないようにすべり周波数を演算し二次抵抗を補正する方法,あるいは現代制御理論によって適応同定する方法などがある。 それぞれの方法によりトルク制御精度の向上が可能となるが,コスト面,信頼性,及び制御処理の高速化を考慮すれば,他の付加的な検出器を用いずに基本となるトルク制御法の特徴を生かした簡便な二次抵抗補正法が望まれるところである。

ベクトル制御系の機械系への応用を考えた場合,その環境及び負荷システムへの適応性が問われる。 環境への適応としては,システムの有寿命,信号ラインへのノイズの混入,またコストの増大などの点からセンサ類を持たないシステムの実現が望まれている。 特に機械への組み込み用電動機としての応用を考えると,速度センサによる外枠形状の増大や振動によるその耐久性等の問題が指摘され,特にベクトル制御誘導機に対する速度センサレス化運転の研究が進んでいる。 代表的なものとしては,誘導機の一次電圧と電流から二次磁束を推定し,電源周波数とすべり周波数を推定する方法,モデル規範適応制御を用いて直接電動機速度を同定する方法,電源周波数演算時に電流情報による磁束変動補償を施す方法等が提案されている。 しかし,パラメータ変動によるトルクや速度制御精度の低下,安定な可変速度制御範囲の拡大,安定かつ高精度な可逆運転特性等,実用上解決されなければならない問題が残されている。

さらに,ベクトル制御誘導機がさまざまな負荷システムへ応用された結果,従来経験しなかった新たな技術的課題が多く指摘されるようになってきている。 例えば,コンプレッサやプレス機械等の駆動時に起こる複雑な負荷トルクの変動,二慣性系を構成する負荷におけるねじれ振動,ロボットアーム駆動における静止時の振動やイナーシャ変動による応答の変化等の問題があり,複雑に変動する機械系に適応できる有効な制御系の開発が望まれている。 この要求に対して,スライディングモードによる方法や適応同定器を用いた方法,あるいは負荷トルクオブザーバを用いたトルクフィードフォワード制御法など現代制御的手法が提案されているが,制御系の実現法や設計法など残された問題点は多い。

本論文はこのような背景の下で,ベクトル制御誘導電動機の制御特性そのものの高性能化,高精度化を扱うとともに,機械系への適応能力を持つ制御系の構成にまで言及し,速度制御システムの高性能化を扱ったものであり,一貫して電圧形PWMインバータと高性能プロセッサ(ディジタルシグナルプロセッサ)のソフトウェアによる制御を前提として理論展開が行われている。 ベクトル制御法に関しては,従来のすべり周波数形ベクトル制御理論を出発点として電圧形インバータに適した2つの手法を提案し,さらにそれぞれの方法に適した二次抵抗補正法を検討することによりベクトル制御誘導電動機の高性能化を図っている。 また,機械系への適応に関しては,提案したベクトル制御法の特徴を生かした速度センサレス制御法を提案する一方,現代制御理論の応用,すなわち負荷トルクオブザーバとそれに基づくフィードフォワード制御による速度制御系の高性能化を図っている。

本論文は,以下の7つの章から構成されている。
第1章では,本研究の背景と本論文の内容及び特徴について概説している。
第2章では,従来のベクトル制御理論と本論文で提案する2つのベクトル制御理論についての総括を行っている。
第3章では,第2章で提案したベクトル制御法の1つである二次磁束制御に基づくベクトル制御法について,システムの実現法及びその制御特性を論じている。 従来のベクトル制御法が電流制御によって二次磁束を制御するのに対し,本法はPWMパタン選択で直接二次磁束を制御する特徴を有し,電圧形PWMインバータに適したアルゴリズムである。 そのため,従来法と異なり電流制御ループの設計を必要としない。 反面,正確な二次磁束推定が必要となるので,本法では回転子に同期した座標系を導入した新しい二次磁束推定演算法を提案し,高精度な二次磁束制御を実現している。 また,トルク制御精度低下の原因となる二次抵抗変動に対しては,その変動に起因する二次磁束制御誤差を用いた補正法を提案し,高精度なトルク制御系が実現できている。
第4章では,第3章の延長として二次磁束制御法に基づく速度センサレスベクトル制御法について述べている。 本法は,二次磁束制御によるベクトル制御が直接的な電流制御ループを持たない特徴を生かし,速度推定誤差に起因する電流制御誤差を用いて速度センサレス制御系を実現するものである。 本法による制御系の構成で必要なセンサは電流センサのみであり,汎用インバータの高機能化と共に機械系への適応性を持つベクトル制御系と位置付けることができよう。
第5章では,本論文で提案するもう1つのベクトル制御法である非干渉電流制御に基づくベクトル制御法について述べている。 本法は電圧形インバータを前提とし,誘導機電圧方程式に基づくブロック線図から導かれた電圧モデルに対するベクトル制御条件を非干渉電流制御によって実現する方法であり,非干渉電流制御を採用することによって,電流ループを含むベクトル制御全体の処理が1個のディジタルシグナルプロセッサのソフトウェアによって実行できる特徴を持っている。 また,本法においても二次抵抗変動に対する一次印加電圧誤差を用いた二次抵抗補正法を提案し,高精度でかつ高速応答を有する全ソフトウェア化ベクトル制御系を実現可能としている。
第6章では,本研究で得られたベクトル制御誘導機の機械系への適応性を向上させるため,負荷トルクフィードフォワード制御による高性能速度制御系について論じている。 本制御系では,ベクトル制御誘導電動機のトルク成分を基に負荷トルクオブザーバを構成し,速度制御系にトルクフィードフォワード制御を付加することによって,外乱トルク変動や機械系パラメータの変動に対してロバストな制御系を構成できている。 このようなオブザーバやフィードフォワードループを含む速度制御系の設計には,単に理論的側面だけではなく,検出器系の性能を考慮した設計方法が必要で,本法では検出器系の性能とオブザーバ出力雑音に着目した設計法を明らかにして,より実用に近い速度制御系の実現を図っている。 提案した制御手法を含めて,本法の有効性は試作偏心負荷システム等を用いた各種実験を通じて確認されている。
最後に第7章では,本研究で得られた成果を概説し,今後の研究課題についてまとめている。